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御朱印のことなど

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年12月31日(水)23時49分0秒
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  もともと御朱印のコンテンツを立てたのは、もちろんそれ自体を私が
好きだからということもありますが、「そういうものがある」という
ことを知った人が「自分も集めてみたい」と思ってくれるとありがたい
という目的がありました。

御朱印をいただくためには、まずは神社仏閣に行かなければならない、
行けば半分以上の人はちゃんとお参りするだろう、とにかく神社仏閣に
接すれば、自然にその良さもわかるだろう、それがわかれば、変な
カルト宗教に引っかかる可能性はずいぶん減るだろうという、まあ、
風が吹いたら桶屋が儲かる式の計算というより願望があったわけです。

大谷大学の助教授が「大事なのはお参りしたことがあるかどうかではなくて、
お参りして教えに出遇(あ)ったかどうかです。また、どんな教えに
出遇ったかということであるはずです」などという寝ぼけたことを
書いていますがhttp://www.tomo-net.or.jp/sermon/leaflet/02.html
その前にお参りしなければ意味がないわけです。

だいたい「教え」によって人は変わるといいますが、そう簡単に変わる
ものではありません。そもそも真宗の聞法だって、教えの中身が効果を
もっているというよりも、「教えを聞く」という行為を繰り返すことが
効果を持っているのです。

宗教でメシを食っていても、宗教を生きているわけではないから、
そういう実態に即したことがわからない。だから、「お寺を回った
というような達成感に腰を落ち着けてしまうのではなく、教えを
聞き続けようと立ち上がる必要があるのではないでしょうか」
などと焦点のぼけた言い方になるわけです。

自分たちのやっていることの意味がわかってないし、だから他人様が
やっていることの意味もわからない。「お寺を回ったというような
達成感に腰を落ち着けて」しまっていると勝手に想像しているわけです。

実際は、特に歩きの遍路などはっきりしていますが、巡り終えたときの
達成感以上に、巡っている最中の体験を通して、体で宗教を学んでいる
わけです。歩いてほどではなくても、車や電車を使っての御朱印
集めでもそういうことがあります。だからこそ、四国でも、一度回れば
また回りたくなるわけです。

私は、その効果はありがたい話を1万回聞くよりも上だと断言します。
いくらありがたい教えを聞いても、受ける器がなければ、まったく
無意味だからです。それは真宗の坊さんを見ればよくわかります。
親鸞上人もさぞや力落としのことでしょう。

閑話休題。

まあ、風が吹いて桶屋が儲かるところまで行っているかどうかはともかく、
最近、御朱印拝受をする人が増えていることは間違いないようです。

今年六月、京都の上御霊神社で御朱印をいただいたとき、宮司さんが
「今年になって御朱印をもらいに来る人が増えた。毎日、一人か二人は
来る」とおっしゃっていました。

これは、やはりネットの力が大きいのではないかと思います。それ以外に
考えられる要素がない。
継続的に活動されている諸賢に深く敬意を払うとともに、その一端で
なにがしか貢献できたであろうと自己満足している次第。

御朱印収集に関して、今年の成果としては、西麻布の神道大教院に
御朱印があることを確認できたこと(東都御朱印集に掲載済み)、
今治市(旧玉川町)の石清水八幡神社(旧四国五十七番札所)の
御朱印を復活してもらえたこと(新年の帰省時に拝受の予定)
でしょうか。レアな御朱印としては、西条市(旧小松町)の
一之宮神社(旧四国六十二番札所)、宮司さんが正月と祭礼時に
しかいないので、拝受が極めて難しいところです。

自己満足的な部分では、伊予国内の名神大社の御朱印を揃えたこと
でしょうか。論社のある伊豫神社・阿沼美神社については、旧県社
のほうだけですが。

今年は結構日曜日が潰れたので、思うように時間がとれなかったのが
残念。四月に始めた御府内八十八ヶ所も、年内の結願はできません
でした。

さて、来年はどうなることか。
 
 
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