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重罪と極楽

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 6月19日(木)19時04分24秒
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  先日、宮崎勤死刑囚(彼が死刑になった日でした)や秋葉原の
通り魔事件の加藤容疑者でも、念仏を唱えると極楽に行けるの
かという議論になりました。

きっかけは、同席していた仏教に造詣の深いある社長さんが、
知り合いの真宗の坊さんにその質問をしたところ、「行けない」
と答えたということから。何でも、今の時代はそう言わないと
やっていけないからだとか。

さすが真宗の坊さんだけあって、まともな信仰がありません。

私の答えは「極楽に行ける。ただし、彼らに極楽に行ける
ような念仏が唱えられるとは思えない(加藤容疑者の場合は
まだ可能性あり)」です。

根本的な問題は、ただ念仏を唱えたからといって、それだけで
極楽に行けるほど甘いものではないということです。そこが
わかっていないので、先祖供養は必要ないとか馬鹿なことを
言うわけです。

特に親鸞上人の教えはそうですが、他力本願の大前提は、自らの
罪悪と煩悩の深さを自覚し、もはや阿弥陀様にすがるよりほかに
ないという境地に立つことです。それがなければ、特に罪を
犯していなくても、極楽には行けません。

真宗の坊さんなど、大半は行けないでしょう。彼らは、自分が
阿弥陀様に救われなければならない必要性など感じていません
から。単に自分は大丈夫と思っているだけ。

仏教の立場からすれば、宮崎死刑囚にせよ、加藤容疑者にせよ、
業縁によって罪を犯したということになります。我々だって、
彼らと同じ生まれ、育ちをすると、同じように罪を犯したかも
しれません。いや、自分の生涯の中で、どこかで縁が変わって
いたら、犯罪者になっていたかもしれないのです。
他人を傷つけてはいけないという「真っ当な」感覚も、言わば
私自身の人生の中で形成されてきたわけで、何かが違って
いれば、そういう感覚を持たなかった可能性がないわけでは
ありません。

実に自分自身の根本的な部分から業縁によって形成されている
ということを自覚すれば、今の特に犯罪とも何とも関係のない
人生を送っているということが、どれほど幸運なことかという
ことがわかります。また、今後、何かの拍子にそれが失われない
という保証もない、心許ない存在であることを自覚する必要が
あります。

そういう観点に立って、初めて弥陀の本願のありがたさがわかる
わけですが、これは非常に難しいことです。

よって、私としては、念仏によって極楽に行けるけれども、
行けるような念仏を唱えられるとは思えない、という結論に
なります。

とはいえ、もしかすると無条件で極楽に行けるかもしれません。

しかし、極楽に行くということは、あちらで成仏する=仏になる
ということです。

仏になって、自分の行為を振り返ったとき、どのような気持ちに
なるでしょうか。また、それを償わずに平気でいられるでしょうか。

そういう意味では、地獄に墜ちるよりよほど苦しいかもしれません。
 
 
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