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熱心に誠実に信じる

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 6月 2日(月)01時19分0秒
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  >荻野様

> 私のは余り生産的な書き込みではないかもしれませんので、

私としては、自分の周辺からは出てこない観点なので、非常に
興味深い対話になっています。何しろ、独りよがりになっては
意味がありませんので、疑問の部分は指摘していただいた方が
ありがたいです。

むしろ、この対話に決着がつけば、件の文章の付録として追加
したいぐらいです(もちろん、荻野さんの許可があればですが)。

> それにしても出張、多いですね。全都道府県制覇されましたか?

近年は行き先が限られているので、全都道府県制覇というわけ
にはいきませんね。昔は仕事で、それこそ北海道から沖縄まで
かなり行きましたが。

因みに、私の生涯経県値は未踏が宮崎県のみ、通過が岩手県のみの
180点ですが、ビジネスの経県値は150点で、北陸・山陰が空白
になります。

>  大宗教でも、殺人を肯定するような宗教でも、鰯の頭でも、熱心に信じて
> いれば、到達するところは同じ、と解釈してもよろしいでしょうか。

そうとも言えるし、そうでないとも言えます。肝心なのは、繰り返す
ようですが、「信仰対象そのものを熱心に誠実に信じていれば」と
いうことです。ここを間違えば、たとえ仏教やキリスト教を信じていても、
その宗教の目指すところとは別の世界を作り上げることになります。
逆に「信仰対象そのものを熱心に誠実に」信じていれば、たとえ殺人を
肯定する宗教であっても、同じ到達できます。それこそ鰯の頭を
信じていても、ですが、現実問題とすれば、鰯の頭を「熱心に誠実に」
信じることのできる人がどれだけいるでしょうか。と、考えれば、
それを信じることのできるほどの信仰であれば、それなりの境地に
到達できることが疑いないのは言うまでもないでしょう。

丁寧に説明すればいいのでしょうが、長くなるので、とりあえず
簡略に説明します。疑問があれば、その旨、おっしゃってください。

例えば「殺人を肯定する宗教」(たぶん、オウム真理教のポアを意識
されているのでしょうが)を考えてみましょう。

まず、殺人を肯定しているのは「教義」または「教祖」です。崇拝対象は
オウムの場合、シヴァ大神ということになりますが、信者は、シヴァ大神
から直接殺人を肯定されたわけではありません。教祖がシヴァ大神の
教えを伝えていると信じているだけです。

しかし、信者にとって、これは判断できないことであって、信者である以上、
信じるしかありません。ここで「熱心に誠実に」というところが問題に
なるわけです。

もし、その宗教の説くところに誤りや問題があった場合、「熱心に誠実に」
信じ、実践していれば、当然、いろいろな問題が起こるようになります。
そこに葛藤や迷いが生じます。その時、教義や観念が崇拝対象そのもの
ではないことに気づくチャンスが訪れます。そして、これは私自身の経験
に基づく信念であり、また、多くの先人の説くところでもありますが、
次のステップに行くための導きが与えられます。ただし、ここで本人が
教義や観念に囚われていると、その導きを逃してしまうのですが。

問題は、自称信仰者の多くが、表面的には熱心なようでも、その実、
それほど誠実ではないということです。ですから、教義に誤りや問題が
あっても、それが現実の問題を引き起こすに至らなかったり、問題が
起こっても表面的にごまかすため、ズルズルと同じところに留まり、
しばしば「信じる者は救われない」ということになります。信じるから
救われないのではなく、誠実に信じていないからです。

インドの三大聖人の一人に数えられるラーマクリシュナは次のように
言っています。
「熱心、ということがすべてだ。ヒンズー教でもイスラム教でも
キリスト教でも、ほかのどんな宗教でも、とにかく熱心になることが
何より大切なこと。--神さまは、私たちの内部にいる導き手なんだ
からね。よくない道だってかまわない。真心こめて信仰していれば、
神さま自身が、よりよい道、より高い道につれていってくださる」
                  『不滅の言葉』(中公文庫)

この言葉は私自身が自分の体験を通じて実感しています。

それと、「神さま自身が」というのが、霊能的に神の声を聞くなどと
いうものではないことは言うまでもないと思いますが、念のため。

> 私が昔いた宗教でも、「教義でなくて、神を信じろ」というような指導は
> 受けたことがありませんね。

もちろんそうでしょう。そんな指導をすれば、通常の宗教団体(宗教では
なく)は成り立ちません(ただし、「神を信じろ」というと、そこで
一つの観念が生じますので、私としては、そういう言い方は避けたい
ところです)。カルト教団など、確実に消滅です。

ただし、禅宗では臨済禅師の「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては
祖を殺せ」という言葉に端的に示されるように、教義や観念に囚われる
ことをハッキリ戒めています。神秘主義の世界においては、ごく当然の
ことです。

> たぶんどっちも信じる、という人が多かったんじゃないでしょうか。
> だって、両者は融合していて、分けるなんて発想はまずないと思うん
> ですけど。

いえ、融合しているのではなく、混同しているのです。同じものだと
錯覚していますから、分けるという発想が出てこないのは当然のこと
ではあります。

> その場合は、山頂には行けないんでしょうか。

「熱心に誠実に」信じていれば行けるでしょう。そうでなければ
いけないでしょう。混同している、ということは、どちらもいる
可能性があるということです。後者のほうが多いでしょうけど。

問題は「何を信じるか」ではなく、「どのように信じるか」という
ことですが、「何を信じるか」が「どのように信じるか」に大きく
影響することも間違いのない事実です。
 
 
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