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Re.感想です。

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 5月11日(日)21時36分11秒
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  >荻野様

この一週間はいろいろありまして、お返事が遅くなってしまいました。

いつも興味深いご指摘をありがとうございます。おかげさまで、毎回
いろいろ刺激になります。

さて、荻野さんのご指摘は、まず何か特別な宗教の到達地点があると
いう考え方から出発しているように思われます。しかし、宗教の到達点
というのは、禅で言うところの「柳は緑、花は紅」すなわち、この世界
のありのままの姿であって、もしそれ以外の特殊なものがあるなどと
いう教団があるとすれば、それは妄想でしかありません。

人間は自らの経験や知識、価値観、思いこみによって有るものを無いと
見たり、無いものを有ると見たり、さまざまな解釈を施して異なるもの
を見たりするため、ありのままの姿を見ることができません。さまざまな
宗教で説くところは、突き詰めれば、世界のありのままの姿を認識する
ための手がかり、方便ということができます。

ところが、その手がかりや方便を最終的な到達点と錯覚するのが迷信や
盲信、狂信というもので、思いこみをなくすどころか、とんでもない
思いこみや妄想を作ってしまうわけです。そして、熱心でわからない人
ほどそうなるので、一般に宗教とは訳のわからないものを信じるもの
というイメージを作ってしまっています。

このことがわかれば、宗教の到達点は同じであり、他宗教とは異なると
思っているのは、入り口でウロウロしていることだということも了解
しやすいのではないかと思います。

ただ、確かに宗教というのは教祖の体験に立脚するので、教祖が自らの
体験を絶対視し、自ら到達した地点を普遍化できないケースもあります。
その場合は、後継者によって普遍化されるか、淘汰されるかのどちらか
です。

> それは普通の信者にとっては、たとえ誠実で
> あっても、大変難しいことではないかと・・・。

確かに難しいことです。ただし、そのこと自体が難しいというわけでは
ありません。

「普通の信者」というのは、往々にして神とか仏とか信仰対象そのものを
信じ求めるのではなく、信仰対象についての教義や観念を信じやすいの
です。その切り替えが難しいのであって、信仰対象そのものを熱心に誠実
に信じていれば、自ずから導かれるものです。「信じるものは救われる」
というのはそういうことで、そういう体験を通して、いわゆる一般に宗教
と考えられているものが手がかり、方便だということがわかるようになる
わけです。
 
 
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