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リンク切れ

 投稿者:Lynx4000  投稿日:2008年 1月27日(日)19時46分40秒
  始めてサイトを見させてもらいました
キリスト教のパブテストのリンク集でこのサイトのトップページへ戻るリンクが切れているようです。
もし分かっていたら気にしないでください。
 
 

分離と統合

 投稿者:近藤  投稿日:2008年 1月20日(日)18時45分46秒
編集済
  ブログ更新のお知らせです。

「分離と統合」を更新しました。

ご興味ある方はご一読を^^

http://blog.livedoor.jp/sin433/

 

本の推薦です。

 投稿者:荻野誠人  投稿日:2008年 1月15日(火)13時46分10秒
   お邪魔します。
 実は『誤解された仏教』は私もしばらく前に読みました。が、全く覚えて
いません。よく分からなかったから、余計に記憶に残らなかったのでしょう。
こまいぬさんはさすがですね。
 もう読まれた可能性が高いとは思いますが、概説書として
 『日本宗教史』末木文美士・岩波新書
 『日本仏教史』末木文美士・新潮文庫
 を推薦いたします。実は、これもほとんど覚えていません(^^;)。が、い
い印象が残っている点が『誤解された仏教』とは違います。
 それではまた。

http://www.bekkoame.ne.jp/i/gb3820/

 

一神教と多神教

 投稿者:近藤  投稿日:2008年 1月12日(土)16時48分49秒
  ブログ更新のお知らせです。

「一神教と多神教」を更新いたしました。

ご興味ある方はご一読を^^

http://blog.livedoor.jp/sin433/

 

もう少し

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 1月10日(木)08時04分34秒
編集済
  龍珉師の覚りが釈尊のものとは異なるという観点に立てば、彼が
なぜ南伝大蔵経に説かれた釈尊の教えを重視しないかも明快に理解
できます。教えが違うために不都合なのです。

龍珉師のような主張の有害な点は、一見、純粋な宗教のように見えて、
その実、宗教の生命を枯渇させ、さらにタチの悪いカルトを出現させる
誘因となる(直接、そこから生み出すわけではない)からです。

ただ、本人が善い人であり、また善い人であろうと努力しているので、
その問題がわかりにくいのですが。

もう一つ言えば、現代日本に鬱病あるいは鬱状態の人が増えている
一つの重要な原因として、こういったタチの悪い善人の蔓延がある
ことを指摘しておきたいと思います。こういう人物の教えを高尚な
ものと錯覚するから、自分自身の地に足についた感覚に自信が
持てなくなってしまうわけです。

近代以降の傾向として、純粋なものを尊ぶ風潮があります。しかし
例えば純水や精製塩が自然状態では存在せず、また人体にとって有害
であるように、「純粋な宗教」も人間の精神にとってきわめて有害
です。

私としては釈尊の覚りとは、実は龍珉師のようなとらわれから脱する
ところにあると思うわけです。おこがましい言い方ではありますが。
 

続き

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 1月 9日(水)23時16分48秒
  一冊の本で、優れた禅の師と評価されている人を批判するのは
無謀なことですが、しかし、これほど中身のない本を読むと、
ちょっと呆れてしまいます。

釈尊の覚りが龍珉師のいう覚りの体験ではないことは、初転法輪
において、コンダンニャが覚った場面を想起すれば明らかです。
コンダンニャは瞑想において覚ったのではなく、釈尊との対話の
中で覚ったのですから。

しかし、このようなことは龍珉師にとって意味のないことでしょう。
龍珉師は歴史上の釈尊が何を説いたかに興味はなく、自分の覚り=
釈尊の覚りと主張しているに過ぎないからです。それに対する
検証はまったくありません。

では、龍珉師のいう覚りとは何かというと、結局、コリン・ウィルソン
言うところの「至高体験」のようです。ご本人は断固否定される
でしょうが。この本において仏教の覚りとは違うと徹底して否定される
梵我一如と変わるところはありません。

このことがわかると、なぜ龍珉師が無我説=無霊魂説とか、釈尊は
「輪廻説」を超越した(釈尊は輪廻を超越したのであって、輪廻説
を超越したわけではない)などと強調するのかがわかってきます。

要は、龍珉師の「覚」なるものが、梵我一如、あるいは他宗教でも
(原始宗教でも)体験できる至高体験と同じだからです。ところが、
龍珉師にとっては同じであってはならないので、釈尊の教えを曲解
してでも、同じでないことを論証しなければならないわけです。

しかし、それは龍珉師の覚りが釈尊の覚りとは違うということを
示しているにすぎません。

前にも書いたとおり、これが龍珉師の仏教理解=龍珉仏教あるいは
龍珉教だというのであれば評価すべき点もありますが、これこそ
釈尊の原点として伝統仏教や神道を批判するというのは無理があり
ます。

もっと内容のある本かと思ったのですが、全く期待はずれでした。
 

『誤解された仏教』

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 1月 9日(水)17時01分27秒
編集済
  昨年末に出た秋月龍珉師の『誤解された仏教』(講談社学術文庫)を読み
始めたのですが、初っ端から躓きっぱなしで、なかなか前に進みません。

つっこみどころ満載。

まあ、もともと私などとは全く考え方の異なる立場なわけですが、逆に、
どういう根拠に基づいてそういう主張を展開しているのかを知ることも
勉強になるだろうと思って買ったのですが、いやはや、お話になりません。

なんといっても鈴木大拙師の高弟ですから、私などの理解が及ばないの
かもしれません。そもそも戒・定・慧の三学すべてに欠けている私など
が偉そうに言う筋合いではないはずなのですが…しかし、おかしい。

誤解された仏教=伝統的日本仏教を批判しているのですが、その批判の
主体たる龍珉師の仏教観じたいが曲解と恣意的な断定に満ち溢れている
のですから、どうしようもありません。

無論、本質的に間違っているかというと、そういうわけでもありあません。
主張している内容には、大いに賛同できるところも少なくありません。

つまり、龍珉師の仏教理解=龍仏教だというのであれば、それはそれで
見るべきものがあります。しかし、これこそが釈迦仏教とし、それに
基づいて他を批判・否定するなら、明らかに間違っています。

要は、自らの「覚」体験を絶対化し、対象をそのままに見るのではなく、
自らの価値観による恣意的な枠組みに当てはめて解釈したり批判したり
するという、きわめて独善的な議論の進め方をしていくわけです。

これでは、まともな議論になりません。

まあ、私など、こういう人を見ると、彼我の間に深い溝を感じずには
おられません。

たぶん、世間的には立派な人・すばらしい人だったのだろうと思います。
また、自身もそう生きようとしたのでしょう。

だからこそ、決定的に欠落している部分があるのだと思うわけです。
幸福なことと言うべきか、不幸なことと言うべきか。
 

御朱印三昧

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 1月 7日(月)21時59分55秒
  正月の帰省は御朱印三昧でした。

最大の収穫は、四国八十八ヶ所の元62番札所である一之宮神社の
御朱印をいただいたことでした(現在の札所は旧別当の宝寿寺)。
普段、宮司さんは仕事の関係で他市に住んでいると聞いたので、
確実にいるのは正月と例大祭の期間中のみだろうと判断したのが
正解でした。

大変話し好きな宮司さんでしたが、あの話しぶりでは、御朱印を
いただきに来る人はまずいないのではないかと思われました。

次に同じく四国八十八ヶ所の元58番札所石清水八幡神社(現在の
札所は旧別当の栄福寺)。こちらも普段は宮司さんが不在のよう
なので正月を狙ったのですが、これも正解。ただし、昔は朱印が
あったものの、それが朽ちて壊れてしまったので、現在はないと
のことでした。何でも、ここ十年、御朱印をいただきに来た人は
ないとのこと。朱印に変わるものもないということでしたが、
次回、事前にもらえれば、何らかの形で応えられるようにしたい
との言葉をもらいました。場合によっては、これを機会に御朱印を
復活させようかとも言っていたので、こちらで御朱印がもらえると
いうのであれば、いただきたいと思う人はたくさんいると思います
と言っておきました。

その他、四国霊場の番外札所など十余ヶ所で拝受。正月のために
帰省したのか、御朱印をもらいに四国へ行ったのかという正月
でした。
 

謹賀新年

 投稿者:近藤  投稿日:2008年 1月 1日(火)09時34分50秒
  あけまして、おめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

新年早々、ブログ更新のお知らせです。
「無限の愛、無条件の愛、神の愛、自然」を更新しました。
ご興味ある方は、よろしく^^

http://blog.livedoor.jp/sin433/

 

おめでとうございます

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 1月 1日(火)08時15分5秒
  明けましておめでとうございます。

皆様にとりまして、本年が佳き年となりますよう
心よりお祈りいたします。

本年もよろしくお願いいたします。
 

ありがとうございました

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2007年12月31日(月)22時39分54秒
  皆様、本年もありがとうございました。

来年もよろしくお願いいたします。
 

お断り

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2007年12月29日(土)17時18分23秒
  見苦しい投稿がありましたので、削除しました。

削除すると死刑だそうですが(苦笑)。

まあ、死刑など持ち出さなければ人の心を動かせないというのも
情けない話だと思いますよ。人間、本当に中身があれば、自ずと
周囲の心服を得るものです。

>近藤様

いつもご案内ありがとうございます。

ついでのようになって、申し訳ありません。
 

愛に基づく思考

 投稿者:近藤  投稿日:2007年12月29日(土)13時02分23秒
  またまた、ブログ更新のお知らせです。

「愛に基づく思考」を更新しました。

ご興味ある方は、よろしく^^

http://blog.livedoor.jp/sin433/

 

ありがとうございます

 投稿者:かわさき  投稿日:2007年12月27日(木)20時35分51秒
  こまいぬ様

ご丁寧なご返事を頂戴しましてありがとうございます。
BBSをシングル表示にしていたためにご返信に気がつかず御礼が遅れてしまいました。
当地の神社に伝わる古文書に五社は、

豊受皇太神
稚産太神
倉稲魂太神
大田乃太神
御饌神
の五社となっております。
こまいぬ様のおっしゃる通りこの辺から調べてみたいと思います。
ありがとうございました。

http://www14.plala.or.jp/nikorobin/index.html

 

Re.稲荷五社大明神祓

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2007年12月24日(月)21時59分56秒
  >かわさき様

申し訳ありませんが、あまりお役に立てそうにありません。

稲荷五社大明神祓は、仏具店等で入手できる『神道大祓』(経本
形式のもの)にはたいてい掲載されていますが、伏見稲荷大社の
『稲荷神拝式』には載っていません。

江戸時代には、いわば神道ブームとでも呼ぶべき状況がありまして、
そういう流の中で、広く唱えられたものであろうと思います。

明治以降、神社神道は国家管理の下で宗教性を抜き取られていった
ため、こういった祝詞も公的には用いられなくなりますが、民間では
生き残っていたものと思われます。それが市販の『神道大祓』などに
残っているわけです。

興味深いのは、稲荷五社というと現在、伏見稲荷大社では
・宇迦之御魂命
・佐田彦大神
・大宮能売大神
・田中大神
・四大神
としています。ところが、この祝詞では
・倉稲魂命(=宇迦之御魂命)
・大己貴命(田中大神と同一視する説がある)
・太田命(佐田彦大神=猿田彦命の末裔)
・大宮姫命(=大宮能売命、天鈿女命のこと)
・保食神(宇迦之御魂命と同一視する説がある)
となっています。
全国の稲荷神社の中には、伏見稲荷の五社明神を勧請したとして、
下の五柱を祭神としているところもありますので、かつてはそう
考えられていた時代もあったものと思われます。

この辺りから調べれば、いろいろなことがわかるのではないかと
思います。
 

稲荷五社大明神祓

 投稿者:かわさき  投稿日:2007年12月22日(土)21時59分30秒
  管理人さま

突然の書込みで申し訳ございません。
当方、表題の稲荷五社大明神祓に付いて調べたいのですが、縁起、出典等ご存じであれば
お教え願えませんでしょうか。
ぶしつけなお願いで恐縮ですがよろしくお願いいたします。
 

愛の定義

 投稿者:近藤  投稿日:2007年12月21日(金)18時48分25秒
  またもやブログ更新のお知らせです。

「愛の定義」を更新しました。

ご興味ある方は、ご一読を^^!

http://blog.livedoor.jp/sin433/

 

Re.猫神様

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2007年12月19日(水)23時56分29秒
  >アルカヘスト様

> 目の青い子は白猫さんに多いので、神様も白猫かも
> しれませんね。

確かに神社で頒布している青い目の招き猫は白猫のようです。

> 冠つけて背筋正しくしている神様が多分
> 無理なさっているのだろうと考えると、

なるほど、確かに猫は猫背ですものねえ。
 

お断り

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2007年12月19日(水)23時06分41秒
  12月18日23時53分の投稿につきましては、迷惑投稿と判断して削除
しました。

主張の内容は理解できなくもありませんが、当掲示板の趣旨と無関係な
長文の投稿は迷惑以外の何ものでもありません。
 

猫神様

 投稿者:アルカヘスト  投稿日:2007年12月19日(水)02時02分56秒
  衣冠姿の猫神様、はじめて見ました。似合いますね。
目の青い子は白猫さんに多いので、神様も白猫かも
しれませんね。そういえば、招き猫も基本は白猫で
すよね。冠つけて背筋正しくしている神様が多分
無理なさっているのだろうと考えると、ご奉仕したく
なりますね。
 

阿於芽猫祖神

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2007年12月17日(月)09時51分34秒
  昨日、青梅でおもしろい招き猫スポットを発見しました。

青梅宿の総鎮守・住吉神社の参道脇に招福殿なる祠があり、
「あおめまねき」という幟が立っています。



中には目の青い招き猫が鎮座しています。ネットで検索すると、
阿於芽猫祖神というようです。



あまり知られていないのでしょうか。「青梅 招き猫」でも
「阿於芽猫祖神」でも、あまりヒットしません。勿体ない。

参道の両脇には「大黒天猫」と「恵比須猫」もいるのですが。


大黒天猫


恵比須猫

神社では、阿於芽猫祖神の縁起物もあるようです。
 

Re.愛に境界は無い

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2007年12月17日(月)09時40分49秒
  >近藤様

いつもご紹介ありがとうございます。
 

愛に境界線は無い

 投稿者:近藤  投稿日:2007年12月15日(土)22時19分38秒
  またまたブログ更新のお知らせです。

「愛に境界線は無い」を更新しました。

ご興味ある方は、よろしく。

http://blog.livedoor.jp/sin433/

 

思考と意識

 投稿者:近藤  投稿日:2007年12月 8日(土)20時52分3秒
  ブログ更新のお知らせです。

「思考と意識」を更新しました。

ご興味ある方はご一読を^^

http://blog.livedoor.jp/sin433/

 

Re.お知らせ

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2007年12月 6日(木)00時29分48秒
  >一閲覧者様

お知らせ、ありがとうございました。東都神社御朱印と諸国神社
御朱印のところでしょうか。今後の更新予定では、今月いっぱい
気付かない可能性がありました。感謝です。

現在、御朱印の部屋については、暇を見つけてファイルの整理を
しているため、リンクに不具合が生じている可能性があります。
分量が多いので、不具合に気付かないこともあると思いますので、
お気づきのことがあれば、お知らせいただけるとありがたいです。

皆様、よろしくお願いします。
 

お知らせ

 投稿者:一閲覧者  投稿日:2007年12月 5日(水)20時28分13秒
  いつも、拝見させて頂いている者です。
現在、御朱印の部屋から朱印集ページへのリンクが一部壊れているようですので、お知らせ致します。
既にお気づきでしたら聞き流して下さい。
 

気づきと意識

 投稿者:近藤  投稿日:2007年11月23日(金)09時09分25秒
  ブログ更新のお知らせです。

「気づきと意識」を更新しました。
ご興味ある方は、よろしく^^

http://blog.livedoor.jp/sin433/

 

Re.純粋意識(神との迎合)

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2007年11月19日(月)17時40分6秒
  >近藤様

ご紹介、ありがとうございます。

最近更新のペースが速いので、いつも楽しみにしています。
 

Re.祝詞

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2007年11月19日(月)17時18分20秒
  >津多姫=^_^=☆ミ様

狛犬七対はすごいですね。確かに三対、四対くらいは時々ありますし、
大きい神社だと摂末社も含めてそれなりの数になったりしますが、それ
にしても珍しいことだと思います。大切にしてこられたのでしょうね。

おっしゃる内容は一々もっともなことで、私なども常々、神社神道の
現状、及び将来に対して危惧しているところです。

言うまでもなく、明治の神仏分離、及び神道の国家管理によって、神道は
宗教ではないという方針から、神社神道から霊的側面が排除され、その
宗教性が著しく弱められて、未だ回復していない、あるいは、その必要さえ
外から見れば、どれほど感じておられるのかよくわからない状態です。

無論、祭祀の厳修ということも重要な要素ですし、そこにも霊的な意義が
あることは確かだと思いますが、しかし、そのままでは文化財・美術品と
して鑑賞の対象になっている仏像などと同様になってしまうのではないか、
と思うわけです。

鎮守の森や自然との共生も大切なことですが、しかし、宗教というのは
もっと人間の生に密着したドロドロとしたものを生命力として、目に目ない
世界と我々を繋ぐところがもっとも重要ではないかと思います。

また現代は、科学や理性を万能とする価値観が限界を迎え、それを超えた
世界を求める人が増えているようです。今後、ますますその傾向は強く
なるでしょう。

そういう時代に、近代的価値観を土台とする神社神道が対応できるのか。
まして、国境の壁が低くなり、人の移動が激しくなるであろうこれからの
社会状況を考えると、神社の存立基盤自体、極めて厳しくなると思われます。

そこで活路を開く可能性があるのが、祝詞をはじめとする神道が伝承し、
蓄積してきた修行や修法の再興であろうと思うのです(ひいては、そこから
神道の精神の再興)。これは、一般人にも伝授可能ですし、言語を問題に
しなければ、民族・人種も関係ありません。また、時代を超えて通じるもの
でもあります。

日本の新宗教の中には、世界的に進出しているものも少なくありませんが、
その中には明治に神社神道から切り捨てられた要素を応用している部分が
少なくありません。そもそも、一部の例外を除く新宗教の大半が神仏習合的
傾向を持っていることからもわかるとおり、神仏分離で排除された要素が
新宗教となって生き残っているという言い方さえ可能だと思います。

このような観点から、祝詞の普及という太田様の活動は、きわめて大きな
意義があると思うわけです。特に、正当な神社神道の世界の中でされている
というところが、重要な意味をもっていると思います。
 

純粋意識(神との迎合)

 投稿者:近藤  投稿日:2007年11月18日(日)12時32分24秒
  ブログ更新のお知らせです。

タイトルは「純粋意識(神との迎合)」。
ご興味ある方は、ご一読ください^^

http://blog.livedoor.jp/sin433/?blog_id=2149915

 

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