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改装

 投稿者:アルカヘスト  投稿日:2008年 6月22日(日)02時55分4秒
  掲示板改装のようですね。
お祝いにこちらを

http://www.nicovideo.jp/watch/sm3707866

アップしたままでブログへのリンクを控えている動画でございます。

19日の記事ですが、当日実は私も同じ題で同じテーマを考えて
いました。
 
 

幸せになる唯一の方法

 投稿者:近藤  投稿日:2008年 6月21日(土)14時48分57秒
  ブログ更新のお知らせです。

「幸せになる唯一の方法」

を更新しました。
ご興味あれば、よろしく^^

http://blog.livedoor.jp/sin433/

 

重罪と極楽

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 6月19日(木)19時04分24秒
  先日、宮崎勤死刑囚(彼が死刑になった日でした)や秋葉原の
通り魔事件の加藤容疑者でも、念仏を唱えると極楽に行けるの
かという議論になりました。

きっかけは、同席していた仏教に造詣の深いある社長さんが、
知り合いの真宗の坊さんにその質問をしたところ、「行けない」
と答えたということから。何でも、今の時代はそう言わないと
やっていけないからだとか。

さすが真宗の坊さんだけあって、まともな信仰がありません。

私の答えは「極楽に行ける。ただし、彼らに極楽に行ける
ような念仏が唱えられるとは思えない(加藤容疑者の場合は
まだ可能性あり)」です。

根本的な問題は、ただ念仏を唱えたからといって、それだけで
極楽に行けるほど甘いものではないということです。そこが
わかっていないので、先祖供養は必要ないとか馬鹿なことを
言うわけです。

特に親鸞上人の教えはそうですが、他力本願の大前提は、自らの
罪悪と煩悩の深さを自覚し、もはや阿弥陀様にすがるよりほかに
ないという境地に立つことです。それがなければ、特に罪を
犯していなくても、極楽には行けません。

真宗の坊さんなど、大半は行けないでしょう。彼らは、自分が
阿弥陀様に救われなければならない必要性など感じていません
から。単に自分は大丈夫と思っているだけ。

仏教の立場からすれば、宮崎死刑囚にせよ、加藤容疑者にせよ、
業縁によって罪を犯したということになります。我々だって、
彼らと同じ生まれ、育ちをすると、同じように罪を犯したかも
しれません。いや、自分の生涯の中で、どこかで縁が変わって
いたら、犯罪者になっていたかもしれないのです。
他人を傷つけてはいけないという「真っ当な」感覚も、言わば
私自身の人生の中で形成されてきたわけで、何かが違って
いれば、そういう感覚を持たなかった可能性がないわけでは
ありません。

実に自分自身の根本的な部分から業縁によって形成されている
ということを自覚すれば、今の特に犯罪とも何とも関係のない
人生を送っているということが、どれほど幸運なことかという
ことがわかります。また、今後、何かの拍子にそれが失われない
という保証もない、心許ない存在であることを自覚する必要が
あります。

そういう観点に立って、初めて弥陀の本願のありがたさがわかる
わけですが、これは非常に難しいことです。

よって、私としては、念仏によって極楽に行けるけれども、
行けるような念仏を唱えられるとは思えない、という結論に
なります。

とはいえ、もしかすると無条件で極楽に行けるかもしれません。

しかし、極楽に行くということは、あちらで成仏する=仏になる
ということです。

仏になって、自分の行為を振り返ったとき、どのような気持ちに
なるでしょうか。また、それを償わずに平気でいられるでしょうか。

そういう意味では、地獄に墜ちるよりよほど苦しいかもしれません。
 

2つの「気づき」

 投稿者:近藤  投稿日:2008年 6月13日(金)21時07分19秒
  ブログ更新のお知らせです。

「2つの気づき」

を更新しました。
ご興味あれば、よろしく^^

http://blog.livedoor.jp/sin433/

 

ご存じかとは思いますが

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 6月11日(水)22時14分22秒
  独自ドメインを取得しました。

現在、サーバー移転作業中。ですが、明日からまた出張です。
 

思考と気づき

 投稿者:近藤  投稿日:2008年 6月 7日(土)09時23分27秒
  ブログ更新のお知らせです。

「思考と気づき」

を更新しました。
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熱心に誠実に信じる

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 6月 2日(月)01時19分0秒
  >荻野様

> 私のは余り生産的な書き込みではないかもしれませんので、

私としては、自分の周辺からは出てこない観点なので、非常に
興味深い対話になっています。何しろ、独りよがりになっては
意味がありませんので、疑問の部分は指摘していただいた方が
ありがたいです。

むしろ、この対話に決着がつけば、件の文章の付録として追加
したいぐらいです(もちろん、荻野さんの許可があればですが)。

> それにしても出張、多いですね。全都道府県制覇されましたか?

近年は行き先が限られているので、全都道府県制覇というわけ
にはいきませんね。昔は仕事で、それこそ北海道から沖縄まで
かなり行きましたが。

因みに、私の生涯経県値は未踏が宮崎県のみ、通過が岩手県のみの
180点ですが、ビジネスの経県値は150点で、北陸・山陰が空白
になります。

>  大宗教でも、殺人を肯定するような宗教でも、鰯の頭でも、熱心に信じて
> いれば、到達するところは同じ、と解釈してもよろしいでしょうか。

そうとも言えるし、そうでないとも言えます。肝心なのは、繰り返す
ようですが、「信仰対象そのものを熱心に誠実に信じていれば」と
いうことです。ここを間違えば、たとえ仏教やキリスト教を信じていても、
その宗教の目指すところとは別の世界を作り上げることになります。
逆に「信仰対象そのものを熱心に誠実に」信じていれば、たとえ殺人を
肯定する宗教であっても、同じ到達できます。それこそ鰯の頭を
信じていても、ですが、現実問題とすれば、鰯の頭を「熱心に誠実に」
信じることのできる人がどれだけいるでしょうか。と、考えれば、
それを信じることのできるほどの信仰であれば、それなりの境地に
到達できることが疑いないのは言うまでもないでしょう。

丁寧に説明すればいいのでしょうが、長くなるので、とりあえず
簡略に説明します。疑問があれば、その旨、おっしゃってください。

例えば「殺人を肯定する宗教」(たぶん、オウム真理教のポアを意識
されているのでしょうが)を考えてみましょう。

まず、殺人を肯定しているのは「教義」または「教祖」です。崇拝対象は
オウムの場合、シヴァ大神ということになりますが、信者は、シヴァ大神
から直接殺人を肯定されたわけではありません。教祖がシヴァ大神の
教えを伝えていると信じているだけです。

しかし、信者にとって、これは判断できないことであって、信者である以上、
信じるしかありません。ここで「熱心に誠実に」というところが問題に
なるわけです。

もし、その宗教の説くところに誤りや問題があった場合、「熱心に誠実に」
信じ、実践していれば、当然、いろいろな問題が起こるようになります。
そこに葛藤や迷いが生じます。その時、教義や観念が崇拝対象そのもの
ではないことに気づくチャンスが訪れます。そして、これは私自身の経験
に基づく信念であり、また、多くの先人の説くところでもありますが、
次のステップに行くための導きが与えられます。ただし、ここで本人が
教義や観念に囚われていると、その導きを逃してしまうのですが。

問題は、自称信仰者の多くが、表面的には熱心なようでも、その実、
それほど誠実ではないということです。ですから、教義に誤りや問題が
あっても、それが現実の問題を引き起こすに至らなかったり、問題が
起こっても表面的にごまかすため、ズルズルと同じところに留まり、
しばしば「信じる者は救われない」ということになります。信じるから
救われないのではなく、誠実に信じていないからです。

インドの三大聖人の一人に数えられるラーマクリシュナは次のように
言っています。
「熱心、ということがすべてだ。ヒンズー教でもイスラム教でも
キリスト教でも、ほかのどんな宗教でも、とにかく熱心になることが
何より大切なこと。--神さまは、私たちの内部にいる導き手なんだ
からね。よくない道だってかまわない。真心こめて信仰していれば、
神さま自身が、よりよい道、より高い道につれていってくださる」
                  『不滅の言葉』(中公文庫)

この言葉は私自身が自分の体験を通じて実感しています。

それと、「神さま自身が」というのが、霊能的に神の声を聞くなどと
いうものではないことは言うまでもないと思いますが、念のため。

> 私が昔いた宗教でも、「教義でなくて、神を信じろ」というような指導は
> 受けたことがありませんね。

もちろんそうでしょう。そんな指導をすれば、通常の宗教団体(宗教では
なく)は成り立ちません(ただし、「神を信じろ」というと、そこで
一つの観念が生じますので、私としては、そういう言い方は避けたい
ところです)。カルト教団など、確実に消滅です。

ただし、禅宗では臨済禅師の「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては
祖を殺せ」という言葉に端的に示されるように、教義や観念に囚われる
ことをハッキリ戒めています。神秘主義の世界においては、ごく当然の
ことです。

> たぶんどっちも信じる、という人が多かったんじゃないでしょうか。
> だって、両者は融合していて、分けるなんて発想はまずないと思うん
> ですけど。

いえ、融合しているのではなく、混同しているのです。同じものだと
錯覚していますから、分けるという発想が出てこないのは当然のこと
ではあります。

> その場合は、山頂には行けないんでしょうか。

「熱心に誠実に」信じていれば行けるでしょう。そうでなければ
いけないでしょう。混同している、ということは、どちらもいる
可能性があるということです。後者のほうが多いでしょうけど。

問題は「何を信じるか」ではなく、「どのように信じるか」という
ことですが、「何を信じるか」が「どのように信じるか」に大きく
影響することも間違いのない事実です。
 

全ては完成されている

 投稿者:近藤  投稿日:2008年 6月 1日(日)01時21分21秒
  ブログ更新のお知らせです。

「全ては完成されている」

を更新しました。
ご興味あれば、よろしく^^

http://blog.livedoor.jp/sin433/

 

Re.Re.感想です。

 投稿者:荻野誠人  投稿日:2008年 5月28日(水)17時38分58秒
   ◆こまいぬ様

 先日はわざわざご回答、ありがとうございました。私のは余り生産的な書
き込みではないかもしれませんので、ご負担になるようならお知らせくださ
い。それにしても出張、多いですね。全都道府県制覇されましたか?

 大宗教でも、殺人を肯定するような宗教でも、鰯の頭でも、熱心に信じて
いれば、到達するところは同じ、と解釈してもよろしいでしょうか。これは
批判や皮肉ではなくて、話を進める上での確認です。

>その切り替えが難しいのであって
 私が昔いた宗教でも、「教義でなくて、神を信じろ」というような指導は
受けたことがありませんね。たぶんどっちも信じる、という人が多かったん
じゃないでしょうか。だって、両者は融合していて、分けるなんて発想はま
ずないと思うんですけど。その場合は、山頂には行けないんでしょうか。そ
れではまた。

http://www.bekkoame.ne.jp/i/gb3820/

 

Re.清浄な罰

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 5月26日(月)11時11分31秒
  >みんみん様

先週は長期出張やらもろもろがあり、レスが遅くなってしまい
ました。申し訳ありません。

今回の出張は食べ物に恵まれまして、とれたてのアスパラガスは
生でも食べられるということを初めて知りました。トキシラズ
(時不知)もご馳走になったのですが、本当においしかったです。
普通の鮭と同じ魚だとは思えません。

さて。

> 「それでは既にいじめではないか」と仰る方がいました。

いじめの問題は難しいですよね。いじめる側の問題だけではなく、
いじめられる側がそれをいじめと受けとめるかどうかという側面も
ありますから。

確かに、いじめの一つの手段として「無視する」という陰険な方法が
あるのは事実です。ただ、積極的に徒党を組んで、クラス全員で無視
する(話しかけない)というのであれば、明らかないじめでしょうが、
単に個人として、嫌な相手から離れるというのまでいじめといえるか
どうか。むろん、離れられた相手は不愉快になるかもしれませんが、
誰も不愉快にさせないなんて不可能です。

チャンナに関しては「気むずかしく、かたくなで、教団の中にあっても
他人と協力せず、とかく摩擦・抗争をおこした」そうです。こういう
人物は、好意や善意を持って接しても必ず裏切られるので、よほど
大きな器を備えた人以外、まともに付き合うことは不可能です。
気の毒といえば気の毒ですが、付き合えば自分が気の毒になる。
その場その場では善い場面もありますが、いつひっくり返るかわからない
ので常に安心ができないし、信用もできません。相手の都合に100%
合わせなければいけませんから、付き合いにおいて、常に自分を
犠牲にしなければいけません。人格障害とは、そういうものです。

そういう人物であれば(実際にそういう人はいます)周囲から人が
離れていくのは当然ですが、それをいじめということができる
でしょうか。

もし、それでもそれがいじめだという人がいるのなら、ぜひ自ら
そういう人格障害者の面倒を見ていただきたい。それでも意見が
変わらなければ、私は心の底からその人を尊敬します。

が、だいたいそういう綺麗事を言う人に限って、自分では絶対に
そういうリスクを背負わないものです。また、背負わないからこそ、
平気で綺麗事を言えるわけです。
 

全ての意識は繋がっている

 投稿者:近藤  投稿日:2008年 5月25日(日)09時25分58秒
  ブログ更新のお知らせです。

「全ての意識は繋がっている」

を更新しました。
ご興味あれば、よろしく^^

http://blog.livedoor.jp/sin433/

 

清浄な罰

 投稿者:みんみん  投稿日:2008年 5月19日(月)01時10分37秒
  こまいぬ様

お返事をどうもありがとうございました。

>パーリ語の『大般涅槃経』を見ると、釈尊はご自分の死後に
ついて指示された中で、チャンナには「清浄な罰」を与える
ように言っています。それは、チャンナは自分の欲するまま
何を言ってもよいが、周囲のものは彼に話しかけたり、教戒を
与えたり、教え諭したりしてはいけないというものです。
要は無視しろというものですが

以前、某掲示板にて「いじめ」の定義について論議していたときに、
この、こまいぬ様のご提示くださった「話しかけない」ことが
いじめにあたるかどうかということが問題になりました。私は、こまいぬ様の
おっしゃったように「自分が嫌だと思う相手からは、ただ単に離れればいい」と
言ったところ、「それでは既にいじめではないか」と仰る方がいました。
私はそう思ってはいなかったのですが、やっぱり私の感覚でも
問題はなかったのですね。少し安心しました。
 

必然の気づき

 投稿者:近藤  投稿日:2008年 5月18日(日)10時50分40秒
  ブログ更新のお知らせです。

「必然の気づき」

を更新しました。
ご興味あれば、よろしく^^

http://blog.livedoor.jp/sin433/

 

ビジネスと聖書

 投稿者:あだち  投稿日:2008年 5月14日(水)09時06分29秒
  失礼します。
     「ビジネスと聖書」のご案内
       ご笑覧ください。
     http://www4.ocn.ne.jp/~kokoro/
 

Re.いろいろ

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 5月12日(月)00時34分17秒
  >みんみん様

お久しぶりです。お元気そうで何よりでした。

> こまいぬ様は、年下に見られることがあったと憤っていらっしゃいますが、
> 女性の私からすれば、若返りは往々にして喜ばしいことのほうが多いのではないかと
> 感じたりしております。

もちろん、見た目だけでも若返るというのは、男性にとっても
基本的に喜ばしいことです。憤慨するような体験は、むしろ
少ないですね。ただ、あの日は本当に憤慨したので書いたの
ですが、若返ってみられることを多少自慢したかった節もない
ではないかとも考えられます。

まあ、そういうところで憤慨させられる相手というのは、そうで
ないシチュエーションでも憤慨させられることでしょうし。

> でもなんだか、「ドラえもんの力を信じているということにして、
> そのことを法廷で言いましょう」とか、弁護士と被告人が相談しているところを
> 想像すると、失礼ですけど、滑稽以外の何者でもないです。

ドラえもん云々については、弁護団の中でも賛否両論あったよう
ですね。今回の裁判については、被告と弁護団が相互に利用し
あったという印象を受けます。

この事件については、やはり本村洋さんの存在が大きいと思い
ます。彼の誠実な態度が多くの人の心を動かし、社会を動かした
わけですが、同時に、人権派を称する弁護士たちの醜く浅ましい
姿を浮き上がらせる結果となりました。

> 人格障害というのは、平たく言えば「チョー性格悪い奴」と片付けられる
> 方々のことです。これらは、生まれもった部分も相当にあるので、
> 彼らの考え方などを治すのは、相当に大変だそうですね。

釈尊にチャンナという弟子がいたのですが、正木晃先生は、
この人物が自己愛性人格障害だったのではないかと推測
しています。
パーリ語の『大般涅槃経』を見ると、釈尊はご自分の死後に
ついて指示された中で、チャンナには「清浄な罰」を与える
ように言っています。それは、チャンナは自分の欲するまま
何を言ってもよいが、周囲のものは彼に話しかけたり、教戒を
与えたり、教え諭したりしてはいけないというものです。
要は無視しろというものですが、釈尊でも治せなかったと
いうことのようです。まして、残された弟子たちにはどう
しようもなく、トラブルの原因となるだけなので、そういう
対処をすることにさせたようです。伝承では、それによって
円満な人格になったということですが…

しかし、お釈迦様でもどうしようもないというのは大変な
ことです。

人格障害のうち、特に問題になるのは反社会性人格障害や
自己愛性人格障害などのドラマティック・タイプですが、
これは遺伝的要因より環境的要因が強いようです。私が
身近に接したケースは、いずれも自己愛性人格障害と
思われる人物ですが、やはり幼少期の環境的要因が大きい
ように思われました。

そういう意味では、確かに気の毒な人たちなのですが、
だからといって、周囲のものが犠牲になってよいという
ことにはなりませんから…難しい問題です。

> そして、この判決にたいする某教授の反応・・・
> このブログ、私も拝見しましたが醜かったですね。

根本的には、こういう人物をカトリック系の大学である青学が
准教授としている不見識が問題だろうと思います。一般の大学
ならばそれほど思わないのですが、私は宗教に立脚している
という時点で、良識を示す義務があると思っています。

今回のことでも、これだけ騒ぎになったから重い腰を上げた
(もしくは上げたふりをした)だけで、問題にならなければ
放置していたでしょう。

> 私が日本を出てからよく思うのですが、日本には、この教授のように極端でなくとも、
> 日本を貶めて喜んでいる輩が少なからずいるということですね。

日本は悪という洗脳に毒されているので、日本を貶めることに
よって、自分は悪い日本人ではないと思えるんでしょうね。
非常に病的ですが、貶められた人を怯むことによってエネルギーを
得ているところがあります。相手に自分のマイナスエネルギーを
送り込み、相手のプラスエネルギーを取り込んで糧としている
ところは吸血鬼のようです。

こういう輩には、彼らのマイナスエネルギーによって動揺しない
ことが一番です。彼らは動揺させるために必死になりますが、
それでも動揺しなければ、彼ら自身が自らのマイナスエネルギー
に蝕まれるようになります。無理にやりこめようなどとせず、
しかし一切影響を受けておらず、彼らの主張に価値を認めていない
ことを厳然と示すことが最も有効だろうと思われます。

> これって、別に私の行動は美化されているわけでもなく、人として
> 当たり前のことではないでしょうか。

そうですね。それが人間としての基本だと思います。
 

Re.感想です。

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 5月11日(日)21時36分11秒
  >荻野様

この一週間はいろいろありまして、お返事が遅くなってしまいました。

いつも興味深いご指摘をありがとうございます。おかげさまで、毎回
いろいろ刺激になります。

さて、荻野さんのご指摘は、まず何か特別な宗教の到達地点があると
いう考え方から出発しているように思われます。しかし、宗教の到達点
というのは、禅で言うところの「柳は緑、花は紅」すなわち、この世界
のありのままの姿であって、もしそれ以外の特殊なものがあるなどと
いう教団があるとすれば、それは妄想でしかありません。

人間は自らの経験や知識、価値観、思いこみによって有るものを無いと
見たり、無いものを有ると見たり、さまざまな解釈を施して異なるもの
を見たりするため、ありのままの姿を見ることができません。さまざまな
宗教で説くところは、突き詰めれば、世界のありのままの姿を認識する
ための手がかり、方便ということができます。

ところが、その手がかりや方便を最終的な到達点と錯覚するのが迷信や
盲信、狂信というもので、思いこみをなくすどころか、とんでもない
思いこみや妄想を作ってしまうわけです。そして、熱心でわからない人
ほどそうなるので、一般に宗教とは訳のわからないものを信じるもの
というイメージを作ってしまっています。

このことがわかれば、宗教の到達点は同じであり、他宗教とは異なると
思っているのは、入り口でウロウロしていることだということも了解
しやすいのではないかと思います。

ただ、確かに宗教というのは教祖の体験に立脚するので、教祖が自らの
体験を絶対視し、自ら到達した地点を普遍化できないケースもあります。
その場合は、後継者によって普遍化されるか、淘汰されるかのどちらか
です。

> それは普通の信者にとっては、たとえ誠実で
> あっても、大変難しいことではないかと・・・。

確かに難しいことです。ただし、そのこと自体が難しいというわけでは
ありません。

「普通の信者」というのは、往々にして神とか仏とか信仰対象そのものを
信じ求めるのではなく、信仰対象についての教義や観念を信じやすいの
です。その切り替えが難しいのであって、信仰対象そのものを熱心に誠実
に信じていれば、自ずから導かれるものです。「信じるものは救われる」
というのはそういうことで、そういう体験を通して、いわゆる一般に宗教
と考えられているものが手がかり、方便だということがわかるようになる
わけです。
 

いろいろ

 投稿者:みんみん  投稿日:2008年 5月 4日(日)00時12分2秒
  こまいぬ様

以前よりたびたびお邪魔させていただいておりましたが、
PCを換えたりなんだりで、しばらくこちらはご無沙汰しておりました。
相変わらずお元気にお過ごしでいらっしゃるようで、しかも若返ったとか! (笑)
こまいぬ様は、年下に見られることがあったと憤っていらっしゃいますが、
女性の私からすれば、若返りは往々にして喜ばしいことのほうが多いのではないかと
感じたりしております。
今までのをまとめて拝見させていただきましたが、日本ではいろいろなことが
起こっていましたね。
光市母子殺人事件については、あまりに残忍だったので、当時よりよく覚えておりました。
確かに、あの弁護団が、今回の判決を導いたような結果になりましたよね。
なので、ネットでは嫌味っぽく「弁護団よくやった!」のように煽っていた人も
いましたね。いわゆる人権派弁護士というものは、冤罪を最前提とするから、
今回のように行き過ぎてしまうときがあるのでしょうかね・・
でもなんだか、「ドラえもんの力を信じているということにして、
そのことを法廷で言いましょう」とか、弁護士と被告人が相談しているところを
想像すると、失礼ですけど、滑稽以外の何者でもないです。
日本の法律では、人を一人でも殺せば死刑に課せるということですし、
今回の無様な弁護は、日本全体の将来を良くするとは思えないですよね。
今までの判例というものに甘えていた結果だと思います。

最近、こちらで心理学を勉強しているのですが、今回の被告人のような、
法を犯すことに対して罪悪感を感じなかったり、罪に対する罰というようなものに
恐怖感をあまり感じなかったりする人は「反社会性人格障害」といわれるそうです。
人格障害というのは、平たく言えば「チョー性格悪い奴」と片付けられる
方々のことです。これらは、生まれもった部分も相当にあるので、
彼らの考え方などを治すのは、相当に大変だそうですね。
そして、こういった人々は、いつの世にもある一定数存在するらしいです・・・
ちょっと困りますが。

そして、この判決にたいする某教授の反応・・・
このブログ、私も拝見しましたが醜かったですね。
ブログ全体が悪意に満ちていました。他人を貶める事で、自分を相対的に
浮き上がらせたいと思っているのか・・・他人というより、日本社会全体ですね。
日本社会全体を貶めて喜んでいる類の人でした。
他の人が、世間に対する憎悪とおっしゃっていましたが、それが当たっていますね。
女のブログで貶められた人もちろん、青山学院の学生も可哀想です。
私が日本を出てからよく思うのですが、日本には、この教授のように極端でなくとも、
日本を貶めて喜んでいる輩が少なからずいるということですね。
それが日本人であろうとなかろうと、その感覚はおかしいですね。
私は日本人でありながらアメリカに住んでおりますが、
そのアメリカ国家に対しては、住まわせてもらって、仕事の機会を与えてもらって、
勉強の機会まで与えてもらって、ありがたいという感謝の気持ちがまず
先に立ちます。これって、別に私の行動は美化されているわけでもなく、人として
当たり前のことではないでしょうか。そこから先の細かい文句はいろいろありますが。

長々と書き込ませていただき、失礼いたしました。
 

感想です。

 投稿者:荻野誠人  投稿日:2008年 5月 3日(土)16時12分50秒
   ◆こまいぬ様

 GWはいかがお過ごしですか。私の方は、この際少し掃除しないと、税金
や保証書等の重要書類がどこかへ行きそうです。

 さて、「分け登る麓の道は多けれど」拝見しました。待ってました、とい
う感じですな。

 たぶん内容は基本的に正しいだろうと感じます。「たぶん~だろう」とい
うのは、すべての宗教の到達点が同じという境地を自分が体験・実感してい
ないからです。

 正しいけれども、かなり程度が高いですね。もちろんそれが悪いという意
味ではありません。

 そもそも、教祖自身が自分の宗教も他宗も到達点は同じだと達観していた
のかどうか。そういう教祖もいたでしょうが、そうではない教祖もけっこう
いたと思います。後者の宗教の信者なら、到達点は同じだと悟ることは教祖
を越えることになりませんか。それは普通の信者にとっては、たとえ誠実で
あっても、大変難しいことではないかと・・・。

 簡単ですが、とりあえず今日はこの辺で失礼します。ではまた。

 追伸 「六道衆」はあの漫画家のオリジナルだったんですね。思わず熟読
    してしまいました。

http://www.bekkoame.ne.jp/i/gb3820/

 

悟りは3秒あればいい

 投稿者:近藤  投稿日:2008年 5月 3日(土)11時22分42秒
  ブログ更新のお知らせです。

「悟りは3秒あればいい(小林正観、著)」

を更新しました。
ご興味あれば、よろしく^^

http://blog.livedoor.jp/sin433/

 

見た目

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 5月 2日(金)22時20分38秒
  先日、髪型を変えたのですが、ずいぶん若く見えるようになったと
言われています。それはそれで結構なことなのですが、どうも、
そのために侮られているのではないだろうかと思われる場面に何度か
遭遇しています。

被害妄想といわれるかもしれませんが、しかし、今までなら特に何も
言われないだろうというような場面で、嫌みを言われたり、注意を
受けたりするのです。どうも、それが若い人を相手にするときの…と
いっても私の年齢に比べてのですが…ではないかと思われるわけです。

髪型を変えた直後、眼鏡も変えたのですが、眼鏡屋さんに実年齢を
言ったら、ちょっと驚いたような顔をして、勧める眼鏡の傾向が
変わったので、若く見えることは間違いないようなのですが。どうも
知らない人には5歳以上若く見えるらしい(10歳ぐらい若く見える
という人もいますが、お世辞でしょう)。

無論、みんながみんなというわけではないし、当然、知人の態度が
変わるということもありません。

しかし、電車の中など、見ず知らずの人の態度から違和感を感じる
ので、いったい何だろうと思っていたのですが、どうもそのあたりが
原因ではないかと思い当たったのです。

きっかけは、昨日、時間を見つけて御朱印をいただきにいった都内
某寺院での応対だったのですが。

住職の奥さんから上から目線で説教をされたのですが、そのご婦人、
根が意地悪な人であることは間違いないにしても、世渡りがうまく、
相手を見て話し方を変えるタイプのようでしたから、私のような
年齢の男性にこういう言い方はしないだろう思ったのです。

私としては、非常にむかついて、嫌みのひとつも言ってやろうかと
思いましたが、まあ、これも忍辱行の実践と考え、あわせて人間観察
のいい機会と思って、相手に合わせて下手に出ることにしました。

すると言葉の端々に「あなたのような若い人は」とか「これも勉強
だから」とか、その他、まあ、私の年齢の人間には言わないであろう
内容があって、なるほど、こちらが若いと思って侮っているな、と
いうことがわかったわけです。

相手の年齢によってあからさまに態度の変わる人がいることは認識
していたとはいえ、改めてそれを実感しました。若く見えるという
のも、いいことばかりではないということでしょうか。

因みに件のご婦人、こちらが下手に出て、感心して聞いていると、
だんだん機嫌がよくなって、最後は気持ちよく別れました。でも、
こちらがこういう分析をしながら聞いていたとは思っていない
だろうなと。多分、最後まで侮っていたでしょう。

まあ、それもお互いに幸せなことかもしれません。
 

藤の花

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 5月 1日(木)00時15分26秒
  早いもので、もう五月です。

しかも30日の東京の最高気温は25度だとか。夏日ですよ。
暑いはずです。

それでも、藤の見頃はこの季節です。

というわけで、29日に撮影した都下某所の藤の花。

 

天罰?

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 4月30日(水)23時01分52秒
  主権者が政治の問題に天罰など期待すべきではありません。

神様が人間の政治に口を出したことなど、歴史上一度もありません。
 

5月、自民党に天罰が下るでしょう。

 投稿者:救世神  投稿日:2008年 4月30日(水)14時34分32秒
  5月、弱い者いじめの 自民党犯罪政治に天罰が下り、
悪党自民は解体消滅するでしょう。
 

対話のあり方

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 4月28日(月)22時31分44秒
  青山学院大学の准教授の問題発言の騒動、謝罪して終わったのかと
思っていたら、まだ続いているようです。

「光市事件の死者は1.5人」 問題発言准教授を青学が処分へ

殊勝なお詫びの文を書いたところまでは見ていましたが、その後の
釈明が逆効果になったようです。やはり非常識なだけだったのか。

さて、この騒動を見て改めて思ったのは、今の日本では、お互いを
高めることを目的とした対話をすることが難しいということです。

これは私自身も反省すべきことですが、現実生活であれ、ネット上
であれ、自分のいいたいことを言いっぱなしであったり、あるいは
相手をやりこめるためだけの議論であったり、あるいは同じ考え方
の人同士で自己満足的な対話をすることが多く、異なる考え方の
持ち主から刺激を受けたり、啓発されたりするような議論・対話は
あまりないように思います(2ちゃんねるの出現以降、そういう
傾向が強くなったように感じます)。

思うに、言論の封殺というのは、そういう価値観をこの世から消滅
させることではなく、潜伏させるだけのことです。納得しなければ
より巧妙に形を変えて活動しますから、かえって望ましくない状態
を作り出すことになるわけです。

また、私たちが生きていく上で「当然」とされていることも、よく
考えてみれば怪しいことがたくさんあります。盗人にも三分の理と
言われるように、常識から考えて「悪」とされることにも、認める
べき言い分があるものです。

そういう反省に基づけば、言語道断というようなことでも、一応、
耳を傾けるべきですし、それを「ダメなものはダメ」などという
知的怠慢なやり方で抑えつけたところで、本当の解決にはなりま
せん(時と場合によっては、「ダメなものはダメ」とまずストップ
をかけることも必要でしょうが)。

私が最初、問題の准教授に多少期待したのは、今回の判決に批判
的な人も賛同的な人も、一様に人道主義的な装いを全面に立てて
いたのに対し、件の准教授はそういう虚飾を排し、極めて挑発的
な言葉を使っていたので(しかも、自分の社会的立場を隠さずに)、
どういう影響が生じるかを自覚した上での挑発かもしれないと
思ったからです(もちろん、単に非常識なだけという可能性が
高いとは思っていましたが…大阪府知事への批評など、エスプリ
もユーモアも感じられませんでしたから)。

まあ、こういう気の毒な方はともかくとして、真摯に考えた内容
であれば、常識に反したり、自分の価値観では認めがたい発言に
対しても、誠実で気持ちよい対話ができるようになればいいのに
と思うわけです。もちろん、互いに誠実であることが必要不可欠
の条件になりますが。
 

青山学院大学の准教授

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 4月26日(土)00時13分13秒
  ところで、この事件について、青山学院大学の准教授がブログに
そうとう不謹慎なことを書いたとかで、炎上したそうです。

なんでも、犠牲者は1.5人だとか、遺族は犯人が死刑になったら
満足なのだろうとか、大阪府知事はエロノックでも務まったのだから
人間の廃物利用でちょうどいいとか、ちょっと普通の感覚では書けない
ことがいろいろ書いてあったとのこと。

因みに、私が見たときには、すでに問題の内容は削除されていました。

まあ、私は私自身の意見との違いに関わらず、世間の大勢に反する
意見を率直に書くこと自体は評価するし、多少不謹慎な意見にも
内心は少々痛快な思いを持つことさえあるのですが、これは駄目
でしょう。人間の尊厳に対する敬意が完全に欠落しています。

ただ、評価して善いのか悪いのか私も迷うのですが、ともかく凄い
と思うのは、有名私大の准教授という立場にある人物が、実名で、
匿名掲示板でも一番悪質とされるであろうレベルの文章をブログに
公開しているということです。世間に対する勇気ある挑戦(挑発?)
なのか、単に非常識なのか、判断に迷うところです。

しかし、こういう人物を准教授として雇った青山学院大もたいした
ものですな。一般の大学でも対処に困るでしょうが、なんといっても
カトリックですから、余計にイメージダウンは避けたいはず。

そういう意味では、過去、フランチャイズの飲食店の愚かな店員が、
ブログに馬鹿な記事を書いて、会社のイメージを悪くしてクビに
なったという話がいくつかありましたが、この准教授もそのレベル
ですな。学歴は高いかもしれませんが。
 

こだわりますが

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 4月25日(金)23時39分48秒
  ネットを見ていると、被告の新供述について、荒唐無稽だからこそ
信じられるのではないかというような意見も見られます。まったく
愚かしいことです。

無論、荒唐無稽だから信じられないなどと断定すべきではありません。
しかし、今回の件については本物の持つ真実性がないわけです。

例えば、私の身近にも六道衆と闘っている人がいます。また、宇宙人に
つけ狙われている人のお世話に関わったこともあります。

こういった人たちは、現実から自分の幻想・妄想の世界に退却している
わけですが、一応、本人の中では一貫した世界が成立しており、それに
基づいて行動しています。現実との間で矛盾する部分を曖昧にごまかす
ところはありますが、一応、一貫しています。

例えば、ドラえもん云々であれば、被告が日常、困った問題が起こった
ときに、押入に入れることで解決しようとしていたのであれば、証言に
信憑性があると言えます。他人に言ってなくても、例えば自宅の押入の
中から壊れた機械や死んだ猫とかが出てきたというのであれば、彼が
ドラえもんを信じていたのだろうという裏付けになります。ところが、
私の知る限り、そういう話はまったく聞きません。彼が幻想・妄想の
世界の住人であったという形跡はまったく見られないのです。

さらに言えば、そういう幻想・妄想の世界の住人は、なかなか簡単に
そこから抜け出したりはしません。むしろ、彼のような状況にあれば、
さらに深く妄想の中に逃げ込むはずです。ところが、彼の自分についての
証言は、極めて客観的です(当時は信じていた等)。これだけ客観的に
自分の状況を説明できる人間が、妄想世界に逃げ込みきれるなどという
ことはありえません。

つまり、彼は自分の観念に基づき、言葉の上だけで妄想世界の住人を
演じようとしたわけです。そこに国民の大半が違和感を感じ、おかしい
ということになったのであって、ドラえもんや魔界転生を持ち出した
ことそのものが問題だったわけではありません。

もし、彼の日常生活の中に、ドラえもんを信じ、押入を使って問題を
解決しようとしていた形跡があれば、一斉に荒唐無稽という批判が
吹き荒れたりはしなかったでしょう。

そういう点から見れば、被告はかなりしたたかで図太い神経を持って
いると思われます。浅はかですが。反省などしているとは到底思え
ません。ただし、以前は不十分ながらも反省しつつあったと思われて
いたわけです。その方向性を狂わせたのは、やはり人権派弁護団と
見るのが自然でしょう。

人権派弁護団にしても、本当に人間と人権を大切にしていたならば、
ここまでのバッシングはなかっただろうと思います。
 

続き

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 4月24日(木)19時36分46秒
  だいたい、弁護団は会見で真実云々などと言っていましたが、必ずしも
被告が本当のことを話しているとは限りません。無論、嘘を言っている
とも限らないわけですが。

判決文は、変に片寄った人でなければ、誰が見ても妥当なものでした。
例えば被害者を生き返らせるために、『魔界転生』の真似をして性行為
云々という供述も、単に荒唐無稽と切り捨てるのではなく、その行為と
目的が『魔界転生』のモチーフとはまったく異なっており、しかも、
それは『魔界転生』のストーリーの根幹をなす部分であるから、それを
読んだ人間が間違えるはずがないので、被告の供述は信用しがたいという、
極めて丁寧で説得力のある判断をしています。

いくら被告の主張を伝えるのが弁護士の仕事とはいえ、明らかにおかしい
主張を垂れ流すのではなく、矛盾がないかどうかを分析するのは当然の
ことだと思うわけです。

まあ、偽善者というのは、自分に都合のよい解釈や虚構を事実より大切に
するものですから、しかたないのかもしれませんが。そうでないと、
自らの偽善が崩壊してしまうので。

知人が、弁護団の会見を見た感想として、泣いている弁護士がいたけど、
どうしてあの場面で泣けるんだろうと言っていましたが、そこで泣ける
ぐらいだから、偽善を貫けるんだと思うわけです。自分が偽善者だと
思っている偽善者は一人もいないわけですから、本人の中では本気
なのです。
 

死刑判決

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 4月23日(水)16時52分20秒
  注目されていた光母子殺害の差し戻し審は死刑判決でした。

今回の判決についていえば、死刑判決を引き出したのは被告人に
ついた人権派弁護団だったといえるのではないでしょうか。

無論、ご本人たちは絶対に認めないでしょうが。

もともと残虐な事件ではありましたが、被告が率直に事実を認め、
心からの反省をしていれば、情状酌量もあり得たと思われます。
遺族である本村さんも、死刑よりも真実を明らかにし、被告が真摯に
反省することを期待していました。

ところが人権派弁護士がついた途端、これまでの証言を覆したのみ
ならず、荒唐無稽な発言を繰り返して、責任能力がなかったことを
主張するようになりました。ところが、それ以前の言動との矛盾が
あまりにひどく、マスコミや国民の間に弁護団に対する不信が増幅
していったわけです。

死刑を避けるためなら何をしてもいいのか?

このような弁護団の戦術が、被告を真摯な反省から遠ざけ、さらに
裁判官の心証を悪化させたことは間違いありません。しかも、その
ために被害者の遺族を余計に苦しめることになったのです。

判決文にも「むしろ、被告人が、当審公判で、虚偽の弁解を弄し、
偽りとみざるを得ない反省の弁を口にしたことにより、死刑の選択を
回避するに足りる特に酌量すべき事情を見いだす術もなくなったと
いうべきである」とあります。

これは被告に対する以上に、弁護団に対するものと思います。

被告が人権派弁護士と会った時点から言動が変わったという事実を
見ても、常識的に考えて、被告の積極的な意志というより弁護団の
主導によるものと考えるのが自然です。つまり、弁護団の戦術が
情状酌量の余地をなくしたといってよいでしょう。

要は自称人権派の自己満足が被告と被害者の遺族の人権を蹂躙した
わけです。

偽善者が自らの偽善を満足させるために、その主張と逆の結果を
周囲に押しつけるというのはよくあることです。しかも、ご当人
たちは、自分たちは善であり、正義であると思い込んで疑うこと
をしません。

弁護団にまっとうな人間としての良心があれば、もっと違った結論
もありえたのではないかと思えてなりません。
 

 投稿者:なでしこ  投稿日:2008年 4月19日(土)22時28分31秒
  御衣黄という名前がまた厳かで、素敵な桜ですね。
来年、是非観に行きたいと思います。

解りやすく・・とは恐縮な感が致します。素人なので難しく思うことはありますが、どうぞ思うがままにお書き下さいませ。その点は勉強になりますので(^-^)
関心のある解らない事は、質問させて頂きます。
 

Re2.補足:末木氏のことなど

 投稿者:こまいぬメール  投稿日:2008年 4月14日(月)04時24分6秒
  >荻野様

普通の生活の中では、そういうことを感じる機会は稀だろうと
思います。

説明を…と思っても、残念ながら時間がありません。また、
機会がありましたら、書いてみたいと思います。
 

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